関東クリスチャン教会
ランデル・スタフォード牧師の証 2003年2月 (ダウンロード)
ランデル・スタフォード牧師がクリスチャンになったきっかけと今日に至るまで
この証(私のイエス・キリストにある人生の証)を書く事になったのは、2,3年前に、アメリカの父方の義理の親戚の方からEメールを頂いた時です。私は5歳の時以来、その叔母と会っていませんでした。私は早速返事を出すと、彼女から「主を褒め称えます!あなたの40年の人生で何が起こっていたのですか?」と返信が来ました。私は、彼女がクリスチャンだと知りとても興奮しました。そしてイエス・キリストにある私の歩みにあって、初めて私は座ってペンをとり「証」を書きました。その後、2,3の事を更に明確にするために変更し、最近起こった出来事も更新しました。全ての出来事について私の記憶は正確ではないかも知れませんが、限りなく近いものです。妻の順子は、校正役になって私が誇張したりしようとする� ��から見守ってくれました。
この証を読み上げる前に誓います。――これから話す事は事実起こった出来事であって、私が本来望んでいたものではありません。しかしながら、イエスによって捕らえられて以来、私はただイエス・キリストを求めたくなりました。私はしるしや不思議を求めた事はありませんし、未だに求めていません。しかし、主が今日でも多くの賜物と、務め、そして奇蹟をイエス・キリストの霊によって注いでおられる事を私は受け入れています。それらは主の御旨によって行われたのであり、私達がそれらを求めるからではありません。多くの信者が主から迷い出、ついには偽預言者と偽りの賜物に仕えるようになってしまう原因はここにあると私は信じます。私達の教会では、多くの賜物を経験し、主の御手が私達に触れる事を見て きています。しかし、私達は祝福を名付けたり、主張したり、要求したりはしません。私達は信じ、仕え、分かち合い、そして待ちます。すると主はいつも誠実に、私達が願う事以上の事をして下さいます。
どうかこの証を、どなたとでも遠慮なく分かち合って下さい。この話について、私は恥ずかしくありませんし、誇ってもいません(と願い、祈っています)。ただ、神の民を励まし、力づけるようにとだけ願っています。
(私の証)2003年2月
キリストにある友へ、
イエスの御名により、日本より愛をもって御挨拶申し上げます。
すぐに返事を差し上げなくて、すみませんでした。学校の為にいろいろと準備がありずっと忙しかったのです。教会の牧会の他に、私は学校の12人の子供達の校長であり、また「天幕張り」でもあります。つまりは、教会を興すのに自分自身の財産を使い、今でも私達は、完全に自分達だけで教会を支えています。(働きながら大学を出るようなものです)。私達の教会の50人の信徒は忠実に献金を捧げていますが、日本の住宅ローン、税金、ガス、水道等の生活費は大変高いのです。ですから、私は教会の経済を補う為にどんな仕事でもします。現在はコンピューターを作り、それを主にクリスチャンの方々に販売しています。
ナオミ(長女)から、あなたが、私のキリストへの回心の話を聞きたがっている、と聞きました。これは本当に奇蹟の話ですので、喜んで分かち合いたいと思います。あなたがどのくらい、バズ(兄)とドーリーン(姉)から話を聞いているのか分かりませんので、初めからにしましょう。
―――私はルイジアナ州で生まれましたが、父は米空軍のパイロットだった為いつもこの基地からあの基地へと引っ越していました。私が覚えている最初の記憶はインディアナ州のバンカーヒル空軍基地のものです。そこに住んでいた際、私達はあなたを訪問したと思います。農場の事を少し覚えています。そこから私達は、カリフォルニア州のマーチ空軍基地へ移りそこで父は退職し、シアトルでボーイングSSTプログラムのテストパイロットに任命されました。3年後に政府がSSTプログラムを取止めたために父は職を失い、日本航空に指導教官として雇われました。1969年私達は日本に引越しました。私が12歳の時です。私は米軍のDOD高校へ通い、順子に出会いました。2人共17歳でした。その後2年間ハワイ州の大学へ通いましたが� ��私は順子と一緒に居たくて日本へ戻って来ました。2年間東京の上智大学へ通いましたが、あまり真剣ではなかったので一学期落としてしまい、恥ずかしい事に卒業しませんでした。順子と私は英会話学校を始めそれなりに成功を収め、1980年に結婚しました。
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この時まで、私はキリスト教には大反対でした。何故そうだったのか正直分かりません。私はしばらく仏教を試みましたが「自分を無にする」事は出来ませんでした。空手も勉強しましたが「超越する」事は出来ませんでした。哲学も勉強しましたが、哲学者自身について調べてみるとほとんどが偽善者であり、彼ら自身が彼らの「体系」によって生きる事は不可能だった事が分かりました。私は遊興と罪に身を入れそれなりに成功しましたが決して満足は得られませんでした。私達は経済的には良くやっていて、1981年一旗上げる為にアメリカへ行く事を決心しました。私達はミネアポリスに住む兄バズの所へ行き、そこで酒屋を開こうと計画していました。しかし、全て台無しになってしまいました。バズは、私達が着いた2,3 ヶ月後にピッツバーグへ移りました。私達にはミネアポリスに知人は一人も居なかった為、兄と一緒にペンシルバニア州へついて行きました。この頃、順子は具合が悪くなり始めました。私達は大した事ではないと思い、ピッツバーグのダウンタウンにある日本のステーキハウスで働き始めました。しかし順子は頚部のガンと診断され、働くのを止めなければなりませんでした。私はガンの広がりを抑える効果があるといわれていたワクチンを順子に投与していましたが、症状はどんどん悪くなりました。特別な食事制限も試し、順子は赤肉や酪農製品等を食べませんでしたが、それも効果はありませんでした。彼女は2,3分以上歩く事さえほとんど出来ませんでした。
1982年の初め、順子は同じアパートの棟に住んでいる日本人女性と出会いました。彼女は熱心なクリスチャンで、順子にイエスへの信仰が彼女を癒して下さる、と語りました。私は感銘を受けませんでしたが、順子は教会と祈り会へ行き始めました。彼女の身体上の健康は悪化し続けましたが、心の中に希望を見出していました。おまけに私は職を失い、失業状態となりました。1982年7月4日、私は独立記念日のピクニックに招かれました。公園でビールでも出るのかと思っていましたが、ショックな事にそれが教会主催のピクニックだったのです!私は大変怒りました。私はリラックスして酔っ払い、タバコも吸いたかったのです!しかしとにかく(恵みによって!)私はそこにとどまりました。昼食後、小さな老年のイタリア人� �師が立ち上がり説教を始めました。私は嫌気がさし、立ち去ろうとしました。しかし、いくつかの語られる言葉に注意を促され、少し耳を傾けました。私はキリスト教に大反対で、自分自身と罪が大好きでしたが、気が付いてみると彼が語る言葉のどれも否定する事はできませんでした。彼が引用した聖句のほとんどを覚えていませんが、私の生涯で聞いたどんなニュースよりも良い知らせを彼が語って下さった事だけは覚えています。最後に彼は全員に頭を垂れるよう言い、もし彼の話した言葉を信じるならば手を上げるようにと尋ねました(実は全てセットアップで、私だけがその場で救われていない者で、私以外の全員はその事を知っていたのです!)。私は自分の意に反して手を上げ「私が今聞いた事は真実である」と認めざるを 得ませんでした。それに、希望と救いの言葉は私の心が欲している事でもありました。私はその日を自分の"生まれ変わりの誕生日"としています。
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そのピクニック後も、私は自分自身と罪への欲望に燃えいきり立っていました。しかし、真理が心に植えられ逃げる事はできませんでした。数週間私は格闘し、その間あわれにも順子に大変辛い時を過ごさせました。8月末、私はまだクリスチャンに対抗し葛藤していた頃、順子は水の洗礼を受けるつもりだと言い、私も一緒に受洗しないかと聞いてきました。「まさか!」と答えたものの、その夜彼女を教会へ送って行く事を約束しました。実は私はそれまで教会の中へ一度も入った事がなかったのです!車から彼女を降ろすと順子はまた、私も来て見てくれないかと尋ねました。私はいやいやながら同意しました(順子は、私が自分から自主的にしてくれたと言っていますが)。彼女が私に洗礼を受けたいか、と尋ねた時に私� �自分でもショックな事に「そうだな。でも、準備していないし。」と口にしていました。彼女はバッグの中に、私の分の服の着替えも持ってきていると言いました(なんて卑怯な!)。礼拝がまさに始まろうとしていた時、私は準備をする為に着替え室へ飛び込んでいました。これもまた私の意志とは正反対な事でした!「着替える」という意味に疑問を持ち、着替え室に入っても全身浸水するバプテスマになるとは夢にも思ってもみなかったのです。私は「洗礼式とは、頭に水をちょっとかけるものか、大きなコップに水を入れてかけるのだ」と思っていました。頭だけが濡れるのだろうと思っていました。…とにかくその日は夏の猛暑でエアコンが超稼働していました。私は300人満員の聖所に入り、他の受洗者が並んでいるのを見つけ 一緒に並びました。最初に呼ばれた人は…私でした!私は前に出て時計をはずすように指示されました。私は何故か聞き、無造作に止め金を外しました。…すると時計は私の手の中で壊れ下に落ちてしまいました。私は怒り始めました!そこで行き場所を案内され階段を上ってみると、なんと目の前にプールがあったのです!もう戻ることは出来ないし、かといって決して入りたくはありませんでした。しかし計り知れない理由によって私は水の中に入り、イエスの名前によってバプテスマを受けました(使徒2:38)。私は、怒りによる湯気が自分自身から沸きあがらないことに驚き怒りました。しかし従ったのです。私が水から出たら次は順子の番でした。私は彼女が受洗するのを待ちました。彼女が出てきて私と一緒に居ると、大きな� ��がやって来て「息子よ、待ちなさい。主からあなたに言葉があると信じます」と言いました。私は何の事やら全く分かりませんでした。6、7人の人が前に呼ばれ、順子と私について話し始めました。ある人は「息子よ、私は今まであなたを守って来た。」他の人は「娘よ、あなたは癒しと新しい命でおおわれるであろう」と言い、他の者は「心配するな。あなたを、神に開け渡せ」、「あなたは新しい命の中を歩み、あなたが欲していた事全てが現実となるであろう」、「主にあって喜べ、主があなたを愛しておられるから」。20分余りも、彼らは私達の為に祈り預言しました。私はまだ怒っており、とても寒く、そこから出たくて出たくて仕方がありませんでした。礼拝が終わって車の中で私は順子に「あそこへは二度と行くつもりはな� ��。」と言いました。彼女は「いいわよ。」と言いました。しかし、私は次の日曜日に行きました。次の水曜日の家庭集会にも行きました。そして金曜日の「クリスチャンの土台」クラスにも行きました。私は引き寄せられていました。順子や他の人々によってではなく、真理と、現実的で正直な交わりと、罪からの自由によって引き寄せられていました。外見上は、私は自分の過去の人生にしがみつこうとしていましたが、内面では新しい命が始まっていました。2,3週間経つと、私は教会で始まったばかりの新しい務めの為の訓練学校に加わるように招かれました。彼らは、私が自分に対して持っていた信仰以上に、私の事を信じていました。
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この間、順子は相変わらず病気でしたが、彼女の状態は安定しました。残念なことに、私の状態はそうではありませんでした。私はまだ仕事がありませんでしたが、日本にいた頃の少ない現金を持っていました。そこで私達はローンを借りて、ショッピングモールに日本のファーストフードのレストランを開く事を決心しました。私達は狂ったように働き繁盛しましたが、モールが人気がなかった為に一年以内で失業してしまいました。私達は全てを失いました。その上、私は賃借の履行を怠った為に50万ドルの負債を持ち、12人の売主が私達を激しく追跡しました。ある友人が、日雇いで建築の仕事をくれましたが、借金を埋めるには不十分でした。このような 中、ある老夫婦の夕食に招待されました。順子はまだ特別の食事制限中で、赤肉と酪農製品を食べると彼女は具合が悪くなっていました。私達は人々がこの事情を知っていると思っていましたが、ショックな事にベーコンサラダと大きなローストハムが私達の前に出されました。順子は私を見て、どうしようと尋ねました。理由は分かりませんが、私はいいから食べなさいと言いました。彼女はその通りにし、美味しいと言ったのです!私達は順子の状態が逆戻りをするのではと恐れて帰宅しましたが、翌朝彼女は大変良い気分で目覚めました。それから後、彼女は生理不順の為に医者へ行かねばと私に言いました。私達は友人に薦められた医者へ行きました。医者は私達をオフィスに呼び、「おめでとうございます!奥様は妊娠していま� ��。」と言いました。私は「シルバーステイン先生、順子は丸2年間、頚部の癌にかかっていました。そんな事が可能でしょうか?」と言いました。彼は私を見て、「そうですか、それでは話にならないですね。彼女が妊娠するはずがない。」と言って生検をとり、再びその結果を聞きに来るように言いました。私は順子の医学記録、X線撮影、診断と薬を持って行きました。彼は全てを見て言いました。「これらは何かの間違いに違いない。これは典型的な癌のケースを記録していますが、私のテストでは全て陰性です。しかも、あなたの奥様が癌であった証拠は無い。いかなる傷跡組織も何も、証拠もない。奥様は明らかに大変健康であり、本当に妊娠していますよ。」ナオミはその翌春に産まれました。大変健康な、奇蹟の赤ちゃんでし た。
初めての妊娠期間中、私達の経済はまだひどい状態でした。私達は12月24日までにアパートを立ち退くようにと注意を受けました。幸いな事にペンシルベニア州では、家族の一員が妊娠している場合は強制的に追い出せない事になっていた為、私達は2月まで住む事が出来ました。その頃、教会の友人が引っ越す事となりました。彼等はとある親切な未亡人から小さな家を借りていました。そこは家賃が大変安く敷金無しにしてくれました。それから数年間、家賃が遅れた時でさえ彼女は理解してくれました。私は大工となり、何でも頂く仕事はしました。ナオミが生まれてからも、まだ借金取りがドンドンとドアを叩いてやって来ました。保安官でさえ来て私達のすべての所有物をオークションに差し押さえようとしました。(2度 も!)しかし最悪の時、日本語の通訳者としての仕事が天から与えられました。レストラン経営時代の知人を通して、鉄製品の製造会社を紹介されました。日本の共同経営者が派遣した技術者との会話のサポートでした。最初は、ほんの2,3日頼まれましたが、結局2週間余りに伸びました。給料は大工をしていた時の3倍以上でした。お金で保安官をなだめる事もできました。その後、日本のテレビ会社から通訳を頼まれました。ピッツバーグで臓器移植の話をする為でした。工学と医学はたまたま両方とも私の趣味の分野で、良い仕事ができました。大工、塗装、電気技師、配管工に戻り、私達は再び借金取りに囲まれました。これら全てが起こっている間、私は9ヶ月の「クリスチャンの土台」のコースを終え、続いて務めの為の訓練課� �に進みました。私はピッツバーグの北地区にあるホームレスの為の伝道会で福音を伝え始めました。しばしば、その伝道会に来た人達の方が私よりも沢山お金を持っていたのは滑稽でした。私達のお金が底を尽きたごとに、その最後の一分間に(時には最後の一分を過ぎてから)日本語の通訳者を必要とする誰かから電話がありました。鉄製品の会社の副社長はルーテル教会の長老で、オハイオ州へ通勤している間、車の中で私と数時間イエスについて語りました。彼は私の信仰に大きな影響を与えました。少しずつ私達は負債を支払い、三年後にはモールの地主からの大きな判決を除いては、ほとんど全てを支払い終えました。私は務めの為の訓練課程を卒業し、教会で土台のクラスを教えていました。順子は健康で、ナオミは普通のそ してわんぱくな幼児でした。
私達は1986年の初めに教会の特別集会に出席しました。その日招かれていた説教者の一人が、順子と私について、「日本へ戻り、そこで主に仕える」と語りました。順子は私達の教会の「家族」を離れたくはありませんでした。しかし私はその時が来た、と分かっていました。私達はその事について祈り、行くべきだと二人で分かりました。しかし未だ一文無しでした。これについて私は、神が私達に経済的に支援されてではなく、信仰によって出て行って欲しいからだと感じました。私は日本に住む為のビザの申請をし、9月に、30日以内に東京に到着するように、でなければビザは没収されます、という通知を受けました。かなり多くの奇蹟を通し、私達はすべての負債(その大きな一つ以外は)を支払い、航空費に充分なお金� �ありました。(注:その最後の残った負債は、モールの地主による失われた収益と被害に対してでした。私達が立ち退かせられた2年後、彼らは別のテナントを見つけたので、私達の負債部分は無効にするべきはずなのですが、すでに判決は下されていました。私は判決を変えるために、裁判に訴える必要があったのでしょうがお金も掛かったでしょう。私達はしばらく何も言われませんでした。そこで、地主があきらめたと想定し、私達はその件をそのままにしました。日本へ帰って4年後、私達は書留の手紙を受け取りました。それは、私達が利子を含めて約800,000ドルのお金を未だに借りている、というものでした。私達はピッツバーグにいる弁護士の友人と連絡を取り、彼女は調査して下さいました。調べた結果、時効が終わりかけて いた為、我々から金を手に入れようと、最後の試みをしたものであると分かりました。私達はじっとするように言われそのようにしました。後に、私達はその負債から完全に自由になった事、また前の地主が巨大な税金を帳消しにする為にそれを利用したと言う事を知らされました。)
私達は現金で1,000ドル足らずを持って日本へ来ました。長くもつはずもなく、しかし主は忠実に順子と私に英語を教える仕事を与えて下さいました。私達は数ヶ月間、東京のある教会へ行きましたが、私達自身の教会を始めるようにとの聖霊の導きを感じました。これは全く私の計画ではありませんでした!私達は、自宅の居間で集会を開いて始めました。丁度この頃プリシーラが産まれました。順子は私達が日本へ来る準備の間中妊娠していました!プリシーラが産まれてすぐ、私達はある自動車車体工場の上階に部屋を借りる事ができました。私達は最初の教会礼拝をそこで1987年のイースターの日曜日に持ちました。一年後に私達は順子の父から借りた古い木材小屋に移りました。そこはとても寂れていましたが、私達はきれ いに掃除し、神を褒め称えました。この時までに、私達の教会には20から25人の聖徒がいました。1992年、ものすごい台風が横浜に打撃を与えました。それにより、建物の土台の角が洗い流されてしまいました。建物全体の構造が傾いていました!修理する事は高く、すでに屋根は雨漏りしており、壁には錆びた穴がありました。私達は答えを求め、新しい建物を建てるべきである、と信じました。銀行にお金は全くありませんでしたが、負債もありませんでした。教会の誰も建築の経験はありませんでした。実際、誰も金槌の頭と先のどちらがどちらかさえ分かりませんでした。私はピッツバーグの私の牧師に、母教会からボランティアを頼む事ができるかと尋ね、彼は同意しました。私は銀行へ行き、アメリカから建築資材を輸入し、ボ� �ンティア労働で建築するのに充分な資金を貸りる事について、銀行から同意を得ました。私のかつての上司(と言っても同い年ですが)、数人の長老、執事、アッシャーそして牧師の息子さえ、喜んで来てくれる事となりました!彼らは休暇を返上して来てくれました。また、何人かは自分で航空代も払ってくれました。私の上司の奥さんまで、内装を助ける為に来てくれました。私達は約3000sq.ftの三階建ての建物を造りました。一階の聖所は約100人を収容ができます。私達は年に数回、クリスマス、復活祭、恒例となった学校の劇等の際には、全ての椅子を使います。
学校の話に戻りますと・・・初めから私達は自分の娘達をホームスクーリングしていました。しかし、およそ8年前、教会全体で私達自身の学校を始める事を決心しました。それは完全に私達の教会の一部であり、先生は全てボランティアです。私はひやかし半分で言うのですが、もしあなたの子供が学校にいるならば、あなたはの協力を強制されるという事です。小学校入学前の学年から高校まで教えています。また、上の子供達は年下の子供達を教えたりもします。ほとんどが英語で教える為、ほとんどの親もまた英語を学ばざるを得ません。私達の第一の学科は尊敬、コミュニケーション、そして愛です。次に重きをおいているのは音楽と美術です。すべての子供達は基本的なコンピューターの技術を学びます。最後に、私� �は数学と科学を常識として教えます。私達は「学究的な事」をほとんど強調しませんが、私達の子供達の才能を測る実力テストは平均をはるかに超え、成績も常に優や秀です。
悲しい事に約4年前、私達はピッツバーグにいる私の牧師との関係から解かれました。これは長い話となりますが、短く言うと、彼は私達の霊的な必要を無視し、私達の上に聖書に基づかない権威を行使し始めたのです。私は本当に彼が最善を意図していたと信じています。しかし彼自身の教会内に起こったいくつかの問題が、秩序と恵みのバランスにあって不安定をもたらしました。彼の教会の聖徒の数人は、窮屈ないくつかの規則に関して、ある程度柔軟であるようにと求めました。彼らは結局は、仲間である事から破門されました。(つまり完全に切り離されたのです!)私は、その模倣をするように、これらの人々(約100人!)と接触を持たないようにと命令されました。しかし、彼らの多くは道理にかなった質問を持っ� �忠実な聖徒でした。私はその状態を省みる機会を求めましたが、利敵行為として不正に訴えられました。さらに暴動の首謀者として訴えられました!私は聴衆の前で語らせてもらいたいと私の牧師にアピールしましたが、彼は断固として譲りませんでした。もし私がこれらの人々と関係を切らなければ、そして完全に私自身と私の教会を彼の権威と規則の元に委ねなければ、私もまた破門されるでしょう。それでも私は、聖書に基づく証人もいないまま、これらの人々の救いを否定するような事はできませんでした。また私の群れを、地球の半分も離れていて日本の事をほとんど知らない誰かの手の元に完全に置くことはできませんでした。そこで、彼は私に私達が異教徒であり破門された、という注意書きを送ってきました。正直言って それはひどく聞こえますが、私達にとっては神の恵みでした。私達はエスカレートしてくる統制と固くなさを感じ、ますます居心地が悪くなっていたからです。アメリカで重要な多くの事は日本では取るに足りない事です。日本で私達は、忠実なクリスチャンが0.1%以下の社会で苦闘しています。アメリカ(あるいは他のどこか)から来た多くの歌、説教、また教えは、私達がここで生活している人生とはかみ合いません。そして実際、神に対する人工的な信仰を創り上げてしまう事となり、聖霊の動きの息を止めてしまいます。今こそ、主がここで私達の為に備えてくださった恵みの深みへと自由に探求する時です。私達は人の偏見と教義の縄目から解放され、キリストの御からだの表れである、各地方教会のために取り分けられている� ��福の場所へと入って行くのです。私は今でも私の牧師の為に、また私達と音信不通になった多くの聖徒と友人の為に、友好と分かち合いそして愛の修復を祈っています。
二年前に、ナオミはハワイ大学の拡張である、カピオラニコミュニティカレッジで勉強する為にホノルルへ行きました。彼女は最初の年は佐藤英梨と共に暮らし、最後の年には竹原望美も加わりました。全員、私達の教会の学校の卒業生です。私達は彼女らを伝道者の書4:12から「三つよりの糸」(簡単に崩れない)と呼んでいます。主が彼女らと共におられるので実際には「四つよりの糸!」です。ナオミはITを勉強しており、この5月に科学の準学士として卒業します。彼女はニューメディアアート、こちらは技術的科学の準学士としてのもう一つの学位を学究するつもりです。これらの2つの分野は最新で、コンピューターのハードウェア、アプリケーションとソフトウェア・プログラミングについて、沢山実地の経験をする� �しょう。彼女がカピオラニを選んだのは、優れた教師と卒業後の就業率が高い為です。彼女は学校で良くやっているだけでなくそれ以上に、一つの良い地方教会で信仰をもって熱心に仕えています。彼女は教会の務めだけではなく、大学での伝道にあっても大変行動的です。3人の娘達は、異邦人と聖徒達の間にあってすばらしい評判を得ています。主を褒め称えます!
現在私達は、私達の教会の建物を修復している真っ最中です。教会は10年経っており、当初は経済的にしかし、将来のアップグレードを考慮に入れて構築されました。神は、それらのアップグレードを実施する時であることを明らかにして、そして彼の意志を成し遂げるために私達に経済と手段を与え、祝福しました。私達は、ガレージの上に部屋を加えています。その部屋は備品収納室へ隣接し、備品収納室はまた洗礼槽の上階部分となります(洗礼槽は、現在は室外で、講壇のすぐ後ろの位置で建物にくっついています)。私達はまた、古い金属の外壁板を取り外すつもりです。それは実用的ですが、余り美しくはありません。それを、オーストラリアから現代的な「繊維コンクリート」の外壁板に替え、板が水平に重なるよ� ��に張っていくつもりです。最後に、私達は教会の正面、外側に十字架を建てたいのです。しばらくの間、私達が求めていた事です。このすべてはアメリカの教会からのボランティアの協力により成し遂げられるでしょう。5つの州からの聖徒達が献身し、来てくれる事になっています。何人かは自分で交通費を出してまで!私達は神の教会を建てる為に共に働く間、すばらしい友好の時となる事を待ち望んでいます。
私はクリスチャンになって21年、ここ日本に戻って16年が過ぎました。私は祝福されています!私自身の子供達は水の洗礼を受け、神に仕えています。この地方教会の交わりの中にいる他の聖徒達も、同様の証で一杯です。私は今46歳、私の救い主にとても満足しています。そして、これから先も起こるだろう冒険の数々を待ち望んでいます。
(証終了)
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